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まだ日は高く、風は僅かに吹いていた。
僕はジャケットのポケットに手を突っ込んで中のミント・タブレットケースを触り、おそらくこれ以上に壮大でそして重要なプロダクトのデザインをいくつもいくつも手がけてきた、スウェーデンのある街に住む若いゲイのデザイナーが昼下がりに描いたのか、あるいはそのどれもが見当違いなのか、とにかく何者かによってデザインされたその形を思い浮かべていた。そうして、もう何年もそこにいて、今視線の先にある立ち枯れた名前も知らない草が芽吹く瞬間を、実は僕は見ていたんじゃないかと思えるほどの時間が過ぎた頃、どこからともなく男は来た。
男は他人と言うには少し近く、連れと言うには少し遠いくらいの距離で止まると、彼女がいないという状態と彼女がいるという状態を比べて、そこにはなにか、岩山を遠くに望む草原のみが広がっているか、それともそこに一頭の牛が頭を垂らし草を食んでいるかの間にある違いのようなものがあるのだと思っていたが、実際そうではなかった、という話を僕にした。
新宿駅東口のロータリーというのはいつも、今の僕のように用があるのかないのかわからない人間が何人もいて、お互いのテリトリーを侵さず、そして自分のテリトリーを主張するだけの存在感を保って立ち続けているものである。男はその境が見えているのか、器用に誰のものでもない場所に立っている。その中にあってなぜ僕が話しかけられていることがわかったかと言うと、それは「立っていると眼鏡にグレイのジャケットの男が唐突に話しかけてくる」という、僕が今日求めていた用事に最も近い内容だったからに過ぎなかった。なぜ唐突にそんなことを話すのか、と僕は尋ねた。当然の疑問だったかもしれないし、もっと聞くべきことはあったかもしれない。男は答えた。
「気づいたからさ。そして気づいたからには、最も早く会うことが出来る、気づいてなさそうな人間にそのことを伝えなきゃいけないと思ったんだ」
男はジーン・ケリーの歌のような、朗らかさとほんのりとした不気味さを含ませながら言った。
「それで?」
僕は僕ができる一番優しい声で尋ねた。スチールの缶を塗料でコーティングし、その表面を触るたびに女性のよく手入れをされた爪を愛でている時のような感覚を与えてくれるポケットのミント・タブレットケースの形は、もう頭の中に十分に出来上がっていた。
「それで、って?」
「なにも、さっきの話はそれで終わりってわけじゃないだろう。その先を教えてくれるんじゃないのか」
「いや」
彼は、僕がたとえどんなことを言ったとしても必ずそう言うと決めていたような素早さで、僕の言葉を否定した。すでに彼の用事は済んだようだった。男はゆっくりと、しかし一声かける隙を見つけるには少し時間がかかる程度には無駄のない様子で、僕に背中を向けた。僕は彼の背に向かって口から出た言葉を放り投げるように聞いた。
タブレット。いるかい?」
男は振り返った。僕は、子供がなにか尋ねる時に首を傾げる動作が持つ意味と同じものを込めて、タブレットのケースを鳴らした。かららん、と音がする。
「それは」彼は溜息を吐き出しながら話し始めた。
「僕の匂いを遠まわしに指摘しているのか?あんまりそういうやり方は好かないな。君に僕の匂いを奪う権利はないんだ」
彼は僕の言葉のせいで気分を悪くしたのか、継ぎ接ぎのアスファルトで覆われた道を、その境界線を踏み荒らすように歩いていく。僕はそれをただ見つめるほかなかった。やれやれ。
ポケットの中から、延々と弄んで生暖かくなったケースを取り出し、開ける。手を受け皿にしてケースを傾けるとアサガオの種ほどの大きさのミント・タブレットが一粒転がってくるので、そのまま口にゆっくりと運び入れる。一粒だけ取り出すというのは案外難しいものだが、もう随分と慣れてしまった。僕がしっかりと向き合わず、いつもバルコニーでアメリカンスピリットの煙をふかしていたために、妻は家を出た。それを機に煙草をやめ、口寂しさを他のもので埋めようとしてもう2年が経った。
ミント・タブレットを舌で転がしながら、彼の言葉を思い出していた。彼女がいるという状態と、いないという状態の違い。しかし僕の疑問はその違いそのものではなく、彼がなぜ僕に教えてくれなかったのかということだった。そしてそれは、誰のものでもない、混みあってきた新宿駅東口のロータリーで少しずつ縄張りを侵され始めている今の僕では、わかりそうもなかった。
僕は極めて冷静に奥歯を噛み締め、口の中に僅かに残っていたミント・タブレットが音を立てることなく歯に詰まり、そして溶け出していくのをしばらく感じていた。そして、女と寝た。