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社会人になってから職場の人と恋愛の話になることがあって、みんな当たり前のようにこれまでの彼氏や彼女がどうみたいな恋愛遍歴を披露してくる。最初にそういう話題になった場では「いやー今まで彼女とかいたことないんスよ〜笑」なんてとても言えない雰囲気で、僕は仕方なく出まかせで「大学2年ごろに彼女がいたけど忙しくて別れちゃって、それからはちょっといないんですよね〜」と答えてしまった。

それ以降「いたことはあるけど今はいない」が僕の職場での公式設定になっている。だけどこの間他社の人から「君今彼女とかいるの?」と聞かれた時、いないと答えたらなんかまたご高説とか賜りそうで面倒くさいなと思って、咄嗟に「いますよ〜」と答えたのを自社の人に聞かれてしまい、「あれ……?」という空気にしてしまった。流れでなんとなく有耶無耶になって突っ込まれなかったけど、場面に応じて彼女がいるだのいないだのいい加減なことを言うのはやめた方がいいなと思った(あたりまえ)。

ちょっと前に同期から「交際相手がいるのか聞かれた時、男は嘘でもいるって言った方がいいし、女は嘘でもいないって言った方がいいらしい」と語られたのがずーっと残ってて、答え方にブレが生じてしまう。たしかに、偉いおじさんが僕の彼女の有無自体に興味があるわけがない。「彼女の一つもできるぐらい誰かから信頼されている、見どころのある人間なのか」をパッと知りたいってことなんだろう。もしくは、「いないんですよ〜!ハハ!」なんて常識はずれなことを言わない人間か確かめられてるだけか。

そうやって考えてしまうと、なんだかそんな質問にまともに答える義理もない気がしてくる。あんまり会わない人には良いように思われておきたいから「いる」と答えたいし、一緒に仕事をする人には自分の程度を知っていてほしいので正直に「いない」と答えたい。

本当は「いたこともない」が正解なんだけど、周りの様子を見るに社会人として一歩家の外に出たら「交際経験あり」の仮面だけは被っておかなきゃいけないような気がしてこういう状態になってしまっている。ありもしないことを言うのは虚しいっちゃ虚しいんだけど、偉いおじさんたちに出鱈目なことを言っていると思うとそこそこ楽しい。

 


最近始めて彼女ができたという同期の友達に会ってきた。

自分と共に「彼女ほしいけどなかなかできないよな〜」みたいなスタンスでずっとやってきた奴で、彼女持ちの友達を一緒になって死ぬほどいじり倒していた仲だったので「抜け駆けしやがったな!」みたいな気持ちもありつつ単純に衝撃が大きかった。

彼女との微笑ましいだけで全くオチのないエピソードを話す様子からはこれまでモテる人間をいじってたスタンスは影も形もなくて、一緒にワイワイ楽しくやってきた人間が笑い抜きで真剣に幸せになろうとする覚悟みたいなものを感じた。

やっぱり彼女ができるってすごいことなんだな。自分は10年の付き合いの中で彼のことをよくわかったつもりでいたし、一緒にひと通りの楽しいことはやったつもりでいたけど、最近できたという彼女はいとも簡単に彼を変えてしまい、これまでとは全く別種の、そして最高の幸せをもたらしたようだった。同性の友達とではどう頑張っても到達できない「男としての幸せの高み」ってやつに、異性の恋人となら容易くいけるらしいということが実感を伴って理解できて、そりゃみんなそうするわなと思った。

 

これで、よく連んでいる同期の中でただの一度も彼女がいたことがないのは僕だけになった。今までだったら「女を作るような奴は軟派」の論理で彼女がいる奴を馬鹿にしたり、抜け駆けされたことに不貞腐れたり、女の前での変わりようを聞き出して笑い飛ばしたりもしてみせたんだろうけど、ここまで交際経験者が多数派になってくるとそういうお笑いじゃなくなってくる感じがある。「なんだかんだ、彼女がいるっていいよな」の認識が共有されているあの集団の中で明らかに僕は異質で、もう前みたいなふざけ方はできないなと思った。

実際、前にも彼女持ちのやつに「デートの時とかに気取ったことをしようとするとおまえらに茶化されたことがちらつく」と言われていたんだった。今までだったらその苦悩はモテる者の義務、ノブレスオブリージュみたいなもんだったけど、こうも彼女の存在が一般化されてくるといつまでもそんなことを言っている僕の方が社会悪だと思う。

最近彼女ができたその友達は、僕にそっとあるツイートの画面を見せてきた。何百だか何千だか何万だかいいねされたそのツイートには「人を好きになれないのは人を信用することを諦めたから」といった旨のことが書かれており(これを書くために一通り検索したんだけど該当ツイートが見つからなかった)僕は「違わい!」と言った。


僕は今までずっと、自分は魅力が乏しいからモテなくて、ぼんやりしているから付き合いたいほど好きな人ができなくて、加害者になりたくないから他人と交際に発展するようなことがなかったのだと思っていた。

でも今回友達の話を聞いていると、「これは」と思えるようなきっかけの多さ(もしくはきっかけを自ら作ろうと動く意識)や、心を決めた人と付き合うための努力の凄まじさ(相手との関係を保つための細やかな連絡や、大きく関係性が動く勝負どころでの精神的・金銭的なコストのかけ方)に圧倒されたし、そういう熱量が僕には致命的に欠けているように思えた。

その友達は相手との関係性が深まっていく中でその相手と付き合おうという気持ちを高めていき、最終的にはそれに突き動かされるように行動を起こしていたらしいが、自分は正直そこまでの熱量を持ったことはなかった。たしかに女の人は好きだけど「じゃあ彼女を作るために全力で頑張るぞ」みたいなモチベーションはないし、彼と比べれば僕の周りの人々に対する「好き」の気持ちなんてぬるま湯も同然で、「これと決めた一人と関係性が深まり付き合いたい気持ちが湧き上がる」なんて状態にもなったことがなかった。

たしかに、僕はまあまあ真っ当に生きてきたんだから、然るべき人たちに頭を下げていけば、これまでの信用ポイントを使えば誰かひとりぐらいは付き合えないこともないかもしれなかった。お金で魅力をカバーしつつマッチングアプリで試行回数を重ねれば、お金が尽きるまで留まってくれる人だっているかもしれなかった。ちょっと考えれば「相手がいない状態」から抜け出す方法なんていくらでもあるのに、それでもそうしてこなかったのは、さっき並べたような理由よりももっと根本的な原因、「自分の熱量不足」が問題な気がしてくる。

「とにかく相手を作る方法」を考えた時に、本当に自然に「これまでの自分の行いに応じて得てきた信用ポイントを消費して見返りを求める」とか「お金を使う」とかいう方法を考えてしまったんだけど、確かにこれは人を信用してない人間のやり方だと思った。友達にあのツイートを見せられた時は「僕は誰も信用してない寂しい人間なんかじゃない」と思って否定したけど、自分の反射的な思いつきを見る限りあながち間違いでもなかったのかもしれない。


「ひとりで生きるか、誰かと生きるか」というのは自分の中では結構長い間考えてきたことだったし、その時々で「こうしよう」という方針も決めてきたことだったけど、今回友達の話を聞いてわかった自分の感覚のズレはその問題を考える上でかなり衝撃的だった。僕はそもそも悩むまでもなく、ひとりで生きるほかなかったんだな。魅力に乏しいだけならいざ知らず、それでもどうにかしようという気力すら人に負けていたんだから。そんなことにすら気づかず未だに「どちらにしようかな」なんて考えていたのは本当に馬鹿だったし、それを気づかせてくれる友達がいたのは本当によかった。

相手がいないことを引きずっていつまでも幸せに水を差すようなことを言うかもしれないけど、これからも仲良くしてほしい。

あと最後に、

 

 

 

 

交際おめでとう!!