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つくづく自分が一番好きだ。

かわいいワタシと、それを追いつめる社会というの構図しかなくて、「どうしてみんな私をいじめるんですか?」(子ども科学電話相談)みたいなことになっている。

とはいえいろんな人たちと関わることで、社会という壁から彫り出され浮き立つ他人という個人を感じはする。ちょうどこんな具合に。

「ラシュモア山」の画像検索結果

ラシュモア山はアメリカのサウスダコタ州にある、大統領の顔が彫られていることでおなじみの山だ。たしかナルトにもこんなんあったな

有象無象の人々は自分にとっては個人として認識されることもなく山肌のように険しくそそり立っていて、その中の何人かはこの石像のように、社会に取り込まれてはいるものの個人として認識できている感じだ。

本当はこんな「自分vsその他全員」という「上原亜衣vs男優100人」みたいな状況からは一刻も早く抜け出すべきだと思う。短期目標としては味方の人間を増やすのがいいし、長期的にはAV女優は卒業した方がいい。上原亜衣がそうしたように。

 

オタクの特徴は自身を大げさに相対化してみせることだという。

自分と社会を照らし合わせ、当然見つかるズレの一つ一つに対して誇ったり、怒ったり、嘆いたり、楽しんだりしながらも迎合はしない。

オタクが自らを「社会不適合者」と名乗るのは、何より社会を見ているからなのだと思う。

 

就活なんかでよく「自己分析!」みたいなことをしきりに言うけど、「自分とはなにか」的思考を行うという意味での自己分析は誰も彼もがやっていいものではないぐらい危ないことらしい。その手の思考はそれを生業としていて狂気に至っても良い大人がやるもので、一般人が手を出していいことではないのだという。

就活における自己分析とは社会と自分のすり合わせであって、ファミレスで二人でメニューを見て料理を頼むかのごとくお互いの落としどころを探るものでしかない。僕はまあ別になんでもいいのに「何頼むかはそっちが決めてよ!OKかは選んだものと私の気分によるけど」って態度をとるあたり社会ってかわいらしいな。強気の女性に振り回されたいんだよね。

 

世の中なぜか強気の人間がいるのは知っていて、これまでに何人ものそういう人間に会ってきた。

目を見開いて、少し顔を斜めにして、相手の返答にかかわらず自分のペースで会話を進める(自分のペースを通すためには相手との会話を破綻させかけて困らせることになっても意に介さない)ことができる人たち。なんだか世の中そういう人間がえらいことが多い。あるいはそれが世の中のスタンダードで、僕がおかしいのかなあ……

その手の人たちを相手にしていると「ああ!今わたしは食われています……強者に!」という気持ちになる。強者の方に聞きたいんですが、やっぱりそういう時って「食ってやってる……弱者を!」という気持ちになっているんですか?

 

自分の人生をずっと生きるのはきっと辛いという論を見た。

確かにそんな感じがして、少なくとも自分は「親を看取り、生んだ子供を独立させ、仕事を辞めてもなんの責任も取らず生きていける状態」にあることを「リタイア」と呼んでいる。社会人ともいうぐらいだし、社会からしたら社会と関わらない人なんて人ではない。社会が人に人生を与えてくれるんだから。

大半の人はある程度の年齢になればリングに放り込まれて社会と取っ組み合いをすることになるけど、それをやめられるタイミングが死ぬ前に来る。この時自分の人生というものは終わって、子供や配偶者という他人の人生を生きることになるんだろう。

自分の次に社会と戦ってくれる人間を見つけられなければいつまでも取っ組み合いをすることになる。辛いだろうなあ、衰えていく体で戦い続けるのは。

 

やっぱり大人になっても楽しい!みたいなことはもう目指せないなと思う。

自分の人生の楽しい期間はあと1年ちょっとですべて終わって、残りの生かしてもらえる分全てでどんな手を使っても金を稼いで、この幸せの前借り分の返済にあてることになるんだろう。とにかくマイナスをゼロにすることしか考えられないし、いつか幸せになれると思うこともできない。

というか、不幸な方が自分らしいし、惨めであることに誇りも持っている。自分を不幸にしたのは先程のラシュモア山的社会、すなわちあらゆる人間たちなのだ。それらが課してきた負の要素に耐えてきたのは自分の力だと思うし、そんな中でいたずらに自分のことを幸せにしようと手を差し伸べられたって、そう簡単には救われてやらないぞという意地もあるし。

だから早く仲の良い人間とどんどん関係を薄めていって、目に見える人間全部恨めしいみたいな状態にしたいんだよな。僕にはラシュモア山の石像はいらないんだよ