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僕はまあそこそこデブなんだけど、精神的にはデブじゃないと、この間思った。
大抵の人は、誰かに向けられた感情を糧に生きていると思う。わかりやすいところで言えば、家族のために頑張る社会人だったり、コメントを拾う配信者だったり、彼氏の連絡がほしいメンヘラ彼女だったり、ファンをたくさん持つ芸能人だったり(芸能人はある種差し出された感情を糧にしてみせるビジネスみたいなところもあると思うけど。大食いタレントみたいな)。向けられる感情がポジティブなものであれネガティブなものであれ、差し出されたそれを受け止めて、自分の感情に変換することで動いている人が多いんじゃないかなあと思う。
「寂しくて死んじゃう」みたいなのは誰からも感情を向けられない、もしくは現在向けられている感情がお口に合わない人が言うセリフなんだろう。精神的な餓死への危機感。

こういうことを考えていたら「感情を摂取したい」という思いの強弱はそのまま食への姿勢に例えられそうだな、と思った。大食いか、少食か。かまってちゃんか、そうでないか。最近は人との関わりがなくなって感情の流通量も減ったので、各々がどう動いてるかを見ることでどっち側の人なのかが何となくわかるような気がする。感情を摂取したくて質問箱や通話をやる人もいれば、なんの音沙汰もない人もいて、僕はなんとなく音沙汰のない人がかっこいいと思う。スマートだな、と。
そういう人に憧れるから、実際に自分も質問箱やマシュマロをこの時期やらなかったり(本当はめちゃくちゃやりたいのに)、人と通話するのを控えたりしている(本当は話したい人がいっぱいいるのに)。だから、精神に関してはデブじゃない。欲求の強さ的にはデブなんだけど、抑えが効いている。ストイックである。スリムたらんとしている。と、自己評価してる。
ただ、こういう感情の摂取を性質的に必要としない人たち(精神的森星)には勝てなくて、そういうモデルみたいな精神ってやっぱ生まれつきのものなんだあ〜。なかなかああいう風にはなれないなあ〜。って思っている。いつも血が滲むような思いで精神的なダイエットをしてるので「ウチあんま(精神的に)お腹空かないんだよね〜笑」ってタイプを見ると、んぎぎ……!!となる。ほら、あたしってば、女子だからサ……。

というのはまあ置いといて、僕はこうしてベラベラ喋る人間なので、多くを語らない人をかっこいいと思っているところがある。普段は静かで、でも周りに人が集まって、たまにポロッと出した一言に重みがあって、みんながそれに反応してくれるような人になりたい。センスがあると思われたい。次何をするのか期待されたい。
ただ、こういうことを言っているうちはそんな理想的なキャラクターになれないこともわかっているので、本当は目指していないのかもしれない。絶対にそうなれないから「こういうのになりたいんだよねってぶっちゃけられちゃう自分もカッコよくないですか」みたいな、精神的かっこよさ第二希望のところを目指しているところがあると思う。まだ聞きたい?この話

デブとかデブじゃないとかそういう強い言葉を使っておいてなんなんだけど、感情を摂取しなきゃ生きていけないのが普通だと思うから、僕が言うところの精神的デブにあたるような人を見ても特になんとも思わない。いや、本当は「抑えるべき感情の箍が外れてほしいままに感情を摂取しているさまが醜いな」と思っているけれど、次の瞬間には自分を省みて「抑えるべき食欲の箍が外れてほしいままにものを食べた結果の体型を恥ずかしげもなく放置しているさまが醜いな」と思っている。それでも自分の体型に最早なんとも思わないように、精神的デブの人に対してもなんとも思わない。世間のことによく反応してしゃべる人も、構ってくれなきゃ泣いちゃうような人もそういう体質。僕はデブの経験が豊富(生え抜きデブ)なので、精神的デブが本当にしょうがないもので、努力で変えることが難しいこともわかっている。
ただ、そういう感情の摂取に対する奔放さがちょっと羨ましいと思う。僕のようなデブがうまそうに飯食うのがうらやましいように、かまってちゃんが主張した分だけ人から愛されるのがうらやましい。精神的にスリムな人にも憧れるし、精神的にデブな人にもなってみたいと思う。つくづく一般人なんだなあ。我精神的一般人。

 

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